芋羊羹

芋羊羹の字面が好きです。なんとなくです。

ダイエットのモチベってみんなどうやって保ってんの

 

相も変わらずタイトルは何も関係ないです。

 

最近(でもないのか?)バズり散らかしている、finoとかいう資生堂のヘアマスクがドンキで安かったので買ってみた。わくわく。

 

イニスフリーのパウダーが流行りだした時にも思ったけど、ホス狂の友人がまあまあな熱量で勧めてきたものがその半年後とかに巷で流行ることが多々あって、もしや今の流行の最先端って歌舞伎町なのか?と思うなどしている。いやたまたまだろうけど。

 

ドンキに向かう途中、大通りのド真ん中で狸が車に轢かれてた。血がいっぱい出てて、動けなくて、まだ生きてて、すごく頑張って鳴いてて、私はどうしたらいいのかわからなくてワタワタしてて、そしたら通りかかったお姉さんが速攻で警察に電話して全部対応してくれた。すごくカッコ良かった、ああいう大人になりたい。

 

年齢的にはもう立派な大人のはずだけど、いつまでも子どものままで嫌になる。

 

本題。

 

社会人(自称)になって、早いものでもう4ヶ月が経とうとしている。私なりにすごくすごく頑張って生きている、と思う。思いたい。

 

就職はしなかったけど、それなりにコンスタントに仕事は貰えているし、結果も残せてきていると思う。今のところは。

 

でもなんでかずっとずっと、焦燥感と孤独感が私を追いかけてくる。

 

数少ない友人のうち何人かは、この数ヶ月で一般的な企業に就職し、恋人と同棲を始め、結婚を視野に入れて貯蓄も始めている。すごいなあ。スピード感についていけない。

 

この世界には「人はみんな、存在しているだけで価値がある」という考え方が「健康的」であり「正義」であるという一般論がキラキラと蔓延っているけれど、どうにも私の肌には合わなくてふと考えるたびにぞわぞわする。

だってじゃあ、この資本主義な社会において経済を回さない人間にどれほどの価値があると言うのか。

世の中はたくさんの仕事で溢れていて、どれかが欠けてしまってはこの危なっかしいバランスの上にかろうじて成り立っている社会は簡単に崩れてしまうけれど、だからといってその仕事をしている人自体には大した価値は無いんだと思う。そしてその中でも社会的価値の低く、自己満足的範疇を出られない仕事を「仕事」と言い張って生きようとしているクソみたいな人間が、私。

 

環境の変化についていけない。分かってたことだけど、「帰属先」を失ったことによる孤独感が凄まじい。これまでの22年間はずっと持ってたものだから。

 

でもそんなこと、今頑張って新しい環境で生きようとしている友人たちには絶対言えない。きっと分かってくれるけど、それじゃ駄目なんだと思う。自分の余裕のなさはそのまま友人たちに鏡写しになるだろうし、じゃあ今、他人の孤独を抱える余裕なんて誰も持ち得ていない。

 

そういう中途半端な冷静さがあって、だから甘えてしまうのだろうな。どこまで許してくれるのかな。「寂しい」「メンタルキツい」って言うと必ず「なんで?」って返してくる人。なんで理由を知りたがるんだろう。本音を話したら絶対面倒くさがるくせに。

 

大学を卒業してから、入る現場全てで「コミュニケーション能力」を褒められる。当たり前だろ、どれだけ精神削って仕事してると思ってるんだ。

どんなにしんどくてもストレス抱えてても不満があってもやりたくないことやらされてても、とりあえずヘラヘラしとけば「明るくて元気だね」って評価される。メンタルはズタボロでも、それに気づく人なんていない。だってその場が円滑に回ってさえいれば、世は全てこともなし、だから。

 

だから気づいてくれる人に弱いんだろうなあ。

 

人生の大きな選択の全てから、逃げて逃げて逃げまくって今ここにいるわけだけど、いつか袋小路に追い詰められてしまう日が来るのかしら、なんて思ってしまう。いつまでも同じようには生きられない、のかなあ。

 

居場所が欲しい、どんなに私が醜くても生き恥を晒してても精神を殺してても、そんなの関係なく迎え入れてくれる場所。きっと世の中の人にとってはそれが恋人であったり家族であったりするんだと思う。縁がない。今、諸々の事情とタイミングで実家に住まわせてもらっているけれど、やっぱり私にとってこの家族は、この親は、私にまつわるもの全てなにひとつ共有したくないし、あわよくば切り捨ててしまいたい存在であることに変わりはないんだと日々実感してしまう。大人になったら全て水に流せると、心のどこかで期待してしまっていたのかな。過去が消えるわけないのに。馬鹿馬鹿しい。

 

毎日何か理由をつけて、家に帰らないよう努めている。我ながら中学生かよと思ってしまうけど、でもだってそれが今私ができる、この家にとっての「最善」だから。

 

 

孤独感から逃げるために、独りになりたい。

 

 

ハンディキャップか重めな持病

 

もうちょっとまろやかな文章が書けるようになりたい。だってその方が可愛らしい。

 

 

朝が辛い。昼も辛い。夕方から少しずつ自己が帰ってくる。だから授業に行けない。夜は眠くならない。代わりに心とお腹がよくわからない悲鳴をあげる。よくわからないから治し方がわからない。とりあえず死のうとしてみる。上手くいかないからベランダに出て煙草を吸う。ルーティン。最近お腹も空いてるのかよくわからないから周りの人たちのタイミングに合わせて食べる。

 

自己が帰ってくるってなんだろう。じゃああの辛い時間自己はどこに行っているんだ。クソみたいな現実を生きるためにその時間があるのなら無理に帰ってこなくていいんじゃないか。世界に責められるのが耐えられないからギリギリで人間らしくしようとする。弱虫。よわみそ。

 

だからまろやかな文章が書けないのだと思う。弱い自分を誤魔化すために小難しい単語と言い回しでゴテゴテにコーティングしてる。文章が私を表している。いっそ太宰みたいに自分の弱いところ醜いところみっともないところそして他人のそれらも全て曝け出した方がいいのかもしれない。あの人の2〜3行に一度句点を打つか打たないかという書き方は一生かけても真似できないと思うけれど。心中してもいいと思えるような人と出会えるというのはきっと幸せなのだろう。

 

自分が一冊の本であれば良いと何度思ったか知れないけれど、そうなったらきっとたった数ページのペラペラでお粗末な本に仕上がる。だってこの人生で成し得たことなどひとつもない。

 

客観的に自己を捉えることは得意だけど、かと言ってそこで得た修正点をインプットする器用さは持ち合わせていないから、今日もわたしに成長は見られない。ドンマイ世間。

 

「○○けど」、で始まる文章が多すぎるな。悪癖は修正したい。

 

大学を卒業した後の人生が見えなすぎる。卒業できるのかは置いておいて。こんなに生きる予定じゃなかったからかな。中学生から何も変わっていない。せめて精神を安定させたい。インスタの加工を統一することに命を燃やすような生き方ができたらきっとそこそこに楽しかったと思う。いい加減孤独感と闘うことに見切りをつけたい。どう足掻いても独りだろう。

 

大人ってどこから。

 

人と関わることのない職につきたかった。でもそういうものは才能が必要で、そして残念ながらそんな持ち合わせはない。殺しながら生きるかジリジリと死ぬか。いきなり銃で撃たれて死んだことも分からずに死にたい。覚悟とかいらない。

 

 

 

今回は心持ちひらがな多めで書いてみた。吐瀉物みたい。わたしがやって許されることではないと学んだ。

 

嫌いなもの

 

◎ドラマやアニメなどでよくある、登場人物が主題歌を歌うか口ずさむか、再生するなどの演出。その手法をとった時点でその世界の大前提が瓦解し、その世界の「現実」と私たちの「現実」が混在してしまう。なぜ非現実(SFだとかそういうジャンル的なことではなく、「他者」を作り出す、モノガタリとしての作品そのものの在り方)の空間に全く違う次元にある異物を放り込むのか。上手いこと言えないが、漫画を読んでいたら登場人物がいきなり自分に話しかけてきたような。干渉。

同じ理由で昭和の漫画によくある、作者本人がコマ外でストーリーについて突っ込んだり、果てはキャラクターと会話したりするのも苦手。この場合はその世界の創造主の介入となるのでまだ不快感はましなのだけど。

 

 

◎余裕がない人。つまり自分の機嫌を自分で取れず、周りに当たり散らし撒き散らす人。それはその人のキャパシティの問題で、きっとそうしたくて人に当たっているわけではない、と思う。おうちに帰って布団に入ってから反省もしてる。そうして自分が嫌いになって次はきっと同じことはしないぞと誓う。でも繰り返す。キャパがいっぱいになっていてそんな反省を引っ張り出す余裕などないから。わかる。

 

わたしが人を嫌うときは九分九厘自分の中の嫌いなところと同じものを見つけてしまったとき。自己嫌悪。

 

 

◎家に1人でいるときにふとやってくる、今すぐにでも消えてしまいたいという圧倒的焦燥感。と、それに伴う心拍数の上昇。こいつは幼い頃からの腐れ縁で、昔は手首を切ることで解消していた。今は煙草がもっぱら。煙草の方が害はあるけど人から心配されないから楽ではある。自分への害よりも他者からの視線や関わりを避けることを優先するあたりわたしの人生そのものみたいで笑える。自分の存在価値ってどこで確かめるの?「生きてもいい」って保証書が欲しい。「死んでもいい」のが楽かな。自己肯定感の欠如が豊饒である。

 

 

◎おから。ゴーヤ。スケートボードに乗っている人。SNSのフォロワーといいねの乞食。掃除。食器洗うこと。既に出来上がっているコミュニティに身を投じること。お金を稼ぐためだけの労働。通りすがりの人の悪口を言う人。「誠に残念ながら今回はチケットをご用意することが出来ませんでした」。自分のジェンダーを自分が嫌われている理由にする人。セックス。実家。親。生きること。

 

 

 

嫌いって漢字、なんで女がついてるの?

好きにもついてるか。

授業課題/テーマ「原風景」

幼稚園に通っていた頃の記憶です

その頃の記憶はどれもこれも
家の中は薄暗くて
外がすごくすごく眩しかった
玄関から見上げる空の青さ
小学校に向かう兄の背中で揺れる黒いランドセル
ドアが閉まったあとの

シンとした空気

そんなものを
よく覚えています


兄が小学校に出かけていくと
母は朝食の片付けや掃除、弟の世話を始めます
父はとっくに会社に向かっています
わたしはひとりで
洗濯物を干し始めます
まだ幼稚園生です
物干し竿はとても高くて
その向こうに見える空はもっともっと高くて
カーテンが半分だけ閉まったこちら側は
やっぱり薄暗かった
実家のベランダは木造製で
今となっては大したことないけど
当時のわたしにはその隙間がすごく大きく見えて
ベランダに置いてあるサンダルは大人用で
わたしはそこからしょっちゅうサンダルや洗濯バサミを落としていました

いつかわたしもそこから落ちてしまうのではないかと
怖くて
振り返っても暗い部屋にわたしひとりで
怖くて
半べそをかきながら
届かない物干し竿に背伸びをして
洗濯物を干していました


早く終わらせないと怒られます
タオルがぐちゃぐちゃだと怒られます
にこにこしてないと怒られます
姿勢が悪いと怒られます
口答えすると怒られます
なにもしてなくても怒られます


幼稚園に向かうまでのたった1時間が
とても長かったことを
覚えています

生活するということ

 

長いものにはとりあえず巻かれとけタイプの人間なので友人間の謎ブームに乗っかって性懲りも無く当ブログを復活させてみました。実に一年半ぶり。今度こそ続けます。多分嘘です。継続するということに対する怠惰っぷりにかけては右に出る者はいないという自負があります。

 

さて、ブログというものは元来日記のような役割を果たすものであり、従って日常で起きた些末な出来事を思いのままに書き連ねるべきであることは重々承知しているのですが、いかんせん日々が全く充実していない。というわけでまずは自らの生活を振り返るところから始めたいと思います。みんなが現代を生きる中自分だけ縄文時代からのスタート。

 

一人暮らしを始めて一年が経ちました。びっくりするくらい生活スキルは上がっていません。むしろ下降気味。金欠の時に先輩にたかる腕だけが磨かれている今日この頃です。元々一人は好きですし一人でどこかに行く、なにかするということに対し抵抗はないタイプの人間なので一人暮らしはマジで最高オブ最高、語彙力無くなる程度には楽しい〜〜〜卍〜〜〜って感じなのですが、しかし生活の為にお金を稼ぐということの精神的苦痛たるや。バイトが権利ではなく義務。人間は生きるだけでお金がかかるのです。働けど働けど飛んで行く儚い給料。家賃、光熱費、食費etc…。

1年間そうやってどうにかこうにかしのいできましたが、あまりにも人間として限界な生活を送っているのを見かねた親から最近家賃および生活費の援助の申し出がありました。ありがてえ。親が嫌いで家を出た身で図々しいことこの上ないですが、貰えるもんは貰っとけということで今月から少しばかり心と生活に余裕が生まれています。ハピネス。

 

自分の生活は基本的に芝居漬けです。起きてる間芝居のことかバイトしかしてません。自分で望み入った世界でこの生活ができることはとても幸せなことでありますが、時々虚無に襲われます。自分に向いているとも思えないこの仕事で一生食っていけるのか。それだけの覚悟と犠牲を払えるのか。芝居が好きで創る側に回ってしまったけども、普通に働いて観劇にたくさん行った方が楽しかったんじゃないか。そんなことを考えます。まあ悩んだところですぐその悩みは生活に潰されてどこかへ行ってしまうんですが。思考停止と言ってもいいかもしれません。でももうこの道を選んでしまったわけで、そしてこの先もきっと選び続けてしまうわけで。とりあえず今はまだ楽しいと思えるところがあるから、まあ楽しめる間は浸っておこうかなと思ってしまいます。

 

 

 

可及的速やかに処理すべき問題として、ゴミ溜めと化している部屋を片付けようと思います。4/16に消防の点検が入るらしいのでそれまでには人間が住める部屋にしたい。

 

あ、誰か仮面ライダーザダイナー行くの付き合ってくれませんか。

 

 

おわり。

 

 

 

 

唐突ですが

 

どうして妙にリアリティのある夢を見たときの目覚めはあんなに途方も無い疲労感に襲われるのでしょうか。こんなしょうもない疑問を抱いてるのはわたしだけでしょうか。わたしだけでしょうね。はい。

個人的にはアホみたいに寝倒すとその時間に比例して無駄にドラマチックな夢を見る傾向がある気がします。脳味噌が睡眠に飽きてきているに1票。まあそもそも夢を見ている時点でレム睡眠である可能性が非常に高くそうなると身体は眠っていても脳は眠っていないことになるのですが。どちらにせよ良質な睡眠ではないということです。深夜バイトは人間の本能に逆らう蛮行だという話でしたっけ。違いますね。

 

というわけで夢の話をしようと思います。先に言っておくとフロイト心理学について触れるのは今回はやめておきます。あの人に任せるとどんな夢でも十中八九欲求不満の四文字で片付けられてしまうので(暴言)。もっとフラットに題材を捉えていきましょう。まだ2回目ですし。

 

さて、どうやら夢には種類として補償夢と逆補償夢というものがあるようです。付け焼き刃の知識なのでざっくりとご説明致しますと、

 

補償夢:満たされない思い、欲求を夢の中で叶えることで一応の精神的満足感を得るもの

逆補償夢:不安に思っていること、実現しないでほしいことを夢の中で体験することで実際にそれが起きた時の衝撃を和らげるためのもの

 

といった感じでしょうか。どちらとも精神的安定の為の夢であるという点は共通していますね。要するに補償夢は好きな人と仲良くなる夢見た!ハッピー!的な、逆補償夢は遅刻する夢見た!危ねえ夢で良かった!的なノリのものと把握してしまって問題ないと思います。これを知ってわたしが真っ先に思ったことは、脳味噌過保護すぎないか?ということです。補償夢はまだわかるが逆補償夢、貴様はなんだ。おかんか。眼前に落ちている小石を拾いすぎてしまうことが結果的に当人の為にならないことは何世紀も前から分かりきっていることでしょうにどうして進化を怠ったのか。お陰でこちらは定期的に冷やっとしたなんとも言えない目覚めをする羽目になっていて大変遺憾です。大いなる流れを前に人類は無力である。

 

なんの話でしたっけ。夢の話です。夢占い、夢分析などといったものは古今東西一定の人気と需要があるものと認識していますが、何故そこまで自らの脳が生み出した虚像に固執する必要があるのでしょうか。勿論そういった方々を馬鹿にする、蔑ろにする意図は毛頭ありませんが夢というものは元来脳がその日の記憶の整理をする時に発生するランダムに切り貼りされた映像であり、乱暴な言い方をしてしまえば部屋の片付けをしてるときに出てきたアルバムや色紙などを並べて眺めているようなものです。そこに脳が下手に介入して中途半端に辻褄を合わせようとするからややこしくなるし人々が意味合いを見出そうとし始める。夢に意味なんてないと思います。身も蓋もないですがそれがわたしの主張です。でも夢を見ることは好きです。楽しいからです。人生そんなもんです。

 

夢日記をつけるという行為も大変興味があります。やったことはないですが、それによって夢の内容自体にも変化が齎されたという例も耳にします。深層心理を見つめる行為だからあまり続けると身を滅ぼすという警鐘もよく聞きますよね。いつかやってみたいとは思っているのですがそもそも朝起きて悠長に日記などつけている暇がないというのが現状です。朝早く目覚めるコツを習得しないと夢日記には辿り着けない仕様です。先は厳しい。

 

長くなってきたので一旦この辺で区切ります。気が向いたら後編をやるかもしれません。気が向いたら。

ところで今日はバイトでお客さんにチップとして野口さん3人頂いたりお給料が予想より多かったりでるんるんして朝ごはんをサンマルクカフェにしました。美味しかったです。幸せでした。

おわり。

人生初の

ブログです、

わあ。

自分の思考やらなんやらを整頓する場が欲しいなあと思い立ちまして始めました。最初の頃はきっと沢山更新するんじゃないでしょうか。よろしくお願い致します。

 

わたしは普段ぼーっとしているとき、取り留めもなく物思いに耽る癖があります。まあそれだけなら誰だってやっているだろうという感じなのですが、わたしの場合色々な思考が同時進行で並列して脳みその中を駆け抜けて行くため、言語化がなかなか追いつきません。それは頭の回転云々ではなく、言葉という形に当てはめようとするとそれに集中してしまい結果として思考が緩慢とする若しくは単一化されてしまうからだと思います。考えていることをその通りに伝えられないというのはなんとももどかしいものがありますよね。それならばいっそのことその思考をなんのしがらみもなく発信できる場を作ってしまおう!という経緯、経緯と言うほど大層な流れではないですが、でめでたく当ブログ開設という形に相成りました。

 

それならば日記で事足りるのではないか、とまあ思いますよね。わたしも思いました。でもやはり日記とブログとでは大きな違いがありまして、それはつまり、読者の存在の可能性の有無です。このブログはアクセス数を稼ぐだの、有名になるだのといった目的は全くありません。しかしながら、不特定多数に発信しているという点においてこのブログ延いてはわたしの思考というものが誰かに読まれる可能性は決してゼロではないのです。そこが日記との決定的な差異と言えるでしょう。0%と1%の差というものは、途方もなく大きなものなのです。虚空に向かい独り言を呟くことと街頭演説で道行く人々に向かい語ること、このふたつの違いと日記とブログとの違いは同義です。誰かに届いているかもしれない、いつか誰かが読んでくれているかもしれない、つまりあなた、今これを読んでいるあなた、地球上のどこかにいるあなた、ひょっとしたら未来のわたしかもしれないあなた、あなたに向かってこのブログは書かれているのです。

 

前書きだけで良い感じの字数になってしまった気がします。あとから読んだら顔から火が出るレベルのものかもしれませんがとりあえずこの先、わたしが飽きるまで、どうぞお付き合いください。

 

 

そういえば今日友人宅で御相伴に与った炒飯、かぼちゃの煮物、赤大根の酢漬けがどれも作り手が違うのですがどれもとても美味しくて、幸せな気持ちになりました。ご馳走様でした。

おわり。